忍者ブログ
2008年6月12日から書いています。毎日朝書くことを習慣にしています。たまに乱れることはあるけれど。
[12] [13] [14] [15] [16] [17]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

夜に担当者から来て正式に来週からホテルのフロントでアルバイトをすることになった。バイトをするのは約五ヶ月ぶり。
夏休みに妹がこんな台詞を言っていた。「働き始めて毎日怒られてばかりで仕事はほんとに辛い。でもその分金曜の夜や土曜日は本当に楽しい」
実家に帰ったときに漫画「ワンピース」を再読していたらウソップも同じようなことを言っていた。「あいつらは毎日命かけて精一杯生きているからあんなに楽しそうに笑うんだ」
来週からは忙しくなる。というかあえて忙しくなるようにした。もっと能動的に動けるように自分をトレーニングしていきたい。脳にとってはいろんな刺激もすべて栄養になるはずだ。

久しぶりにテスト前日以外に学校で勉強をした。今日飲み会があるので早めに始めたのだ。やる気がでるかわからなかったがすぐに集中できた。これが毎日続けられるようになるのが当面の目標だ。
今週は運動をあまりしていない。近所のプールが改装工事で四日間休みだったせいもある。それも昨日で終わりなのでまたいい汗を流したい。
北陸は雨が多い。まあそれは僕の実家でも同じだけれど。毎日自転車に乗って通学できたらガソリン代はかなり浮くのにな~
PR
世界一臭いと言われる食べ物を食べた。名前は忘れてしまったが、you-tubeなどでそれを食べた人が吐いている映像が載せられているほど。
まず缶を開けたときの臭いがひどい。それから食べた後に来る嗚咽感。一旦それが過ぎてしまうと普通の塩辛に近い感覚で食べることが出来るが、それでも食事であの感覚は初体験だった。
貴重な経験をした、というのは確かだがあれは一回味わえばもういい気がする。

夜はマイケル・ムーア監督の「ボーリング・フォー・コロンバイン」を観た。銃社会を切り口にアメリカの恐怖文化を描いたものだ。アメリカ国内で銃で死ぬ人の数は他の国の群をはるかに超えている。その数年間一万人以上。軽く二桁は違うのだ。実際の犯罪は年々減少しているのにテレビのニュースでは犯罪の報道は増え続けている。そうやって人の恐怖を煽り、自衛を促す。結構前の映画だから今は多少違うのかもしれないが、そういった文化と頻繁に戦争を起こすことが無縁だとは思えない。

「すべては脳からはじまる」を読み終わった。あのエッセイは読みやすいし、脳科学をスパイスに使っていろんな物事を扱っている。茂木さんの本からはまだまだ離れられなそうだ。

授業は小児の発達過程と心奇形、心エコーについて学んだ。先週のテスト範囲のウイルスの知識もほとんど抜け落ちていた。困ったものだ。もっと思い出す機会を増やしていかないと。
ちなみに思い出すときに使う脳の回路と創造的な作業のときに使う回路は同じらしい。思い出すことで創造的になれると考えれば暗記の作業も少しは楽しくなるはずだ。

映画を二つ観た。「ガンジー」と「DMC」。
アインシュタインがかつて「将来の人はガンジーという人間がいたことを理解できないのではないか」という旨の台詞を残したが、それほどに彼の行動は尊いものだったのだろう。
暴力や支配に対して徹底した非暴力で対抗する。今でいうハンガーストライキだが、ガンジーを死なせまいと最後はインド中が動く。
イスラム教とヒンドゥー教の仲の悪さにはどんな歴史があるのだろう?いつか調べてみねば。
インドの紙幣には今も全てにガンジーの顔が印刷されている。それだけ思想的に根強く影響を残しているのだろう。IPPNWという大会に参加したときも「ガンジーを輩出した国が核兵器を持ってしまったことを恥ずかしく思う」というコメントを聞いた。

DMCのほうは劇場で観た。内容は他愛のないものだったが笑えたしメタルに興味も沸いた。自転車に乗るときや走るときに聞くのはありかもしれない。「メタルの本質はそのコードにある」ということを以前聞いたことがある。今度試しに借りてみよう。

 茂木健一郎氏の「天才論」を読んだ。ルネッサンス時代の知識人たちは専門性という概念が希薄だったかも知れず、それゆえあらゆる分野に精通していた。現代の人々も総合的な知を引き受けた上で一つの仕事をなしていくべきだということが書かれていた。
 大学の勉強だけが学問ではない。脳から見れば生活の中のあらゆる営みが学習となる。
 もっと自分から能動的に動いていろんなものに触れたい。
 それにしても昨日の小児外科の授業はわかりやすかった。テストは筆記だということだが、今回は余裕を持って丁寧に勉強することを心がけよう。

  最悪の気分で布団から這うように起きる。隣には賢三が口を半開きにして寝ている。ロフトの上から見る風景はさんざんたるものだった。昨日どれだけ飲んだかは覚えていないが自分の今の状態と下のテーブルに並べられた空の缶ビールの量を見れば容易に想像がつく。下には正樹と将が寝ている。ぼくは三人を起こさないようにゆっくりとはしごを降りる。カーテンを開けたまま寝ていたので向かいのアパートの様子がはっきりと見える。「御免くださーい!斉藤さんのお宅ですか?誰かいらっしゃいませんか!」配達人が真ん前に見える部屋のドアを勢い良く叩いていたが、やがて諦めて去っていった。ぼくはゆっくりと着ていた服を脱ぎ、ジーンズを穿き、パーカーに取り掛かろうとしていた。そこで正樹を起こしてしまった。「おう、起きたか。ちゃんとバイトは行けよ。」そして寝返りを打つ。

 鏡の前に行って自分の姿を映す。寝癖はそこまでひどくないが、寝不足とアルコールのせいで顔はひどくむくんでいた。まあ、しかたないな。ぼくは割り切ってテーブルの上を物色する。ペットボトルのウーロン茶をのどに流し込みながら自分が持ってきたものをポケットの中に突っ込む。携帯電話、電車の定期切符、MDウォークマン、家の鍵。他には残っていないことを確認して、ポケットの感触を確かめる。何か足りない。財布だ。テーブルの下、クローゼットと探してから一人で探すことを諦めて正樹を起こす。「なあ、財布がないんだ。探してくれよ。」正樹は面倒くさそうに起き上がる。どうせすぐ見つかるだろうというように。でも二人で探してもなかなか見つからない。そのうちに残りの二人も起きてしまう。そして結局は全員で探すことになる。それでも財布は見つからない。

 「んー、ないなー。」賢三はまだ目を擦りながら言った。「ひょっとして俺の金も入ったまま?」ぼくは力なく答える。「悪い」正樹はテーブルのそばで煙草に火をつけた。そして煙を吐き出してしまってからウーロン茶を手に取る。

 昨日の、まだ酒を飲み始める前のことだ。賢三はぼくに一万五千円を預けた。自分が持っていると使ってしまうからというのが理由だった。ぼくはそれを特に考えもなく受けた。次の朝起きたら自分の財布がなくなっているなんて一体誰が思うだろうか?

 寝ていた布団をたたみ、本格的に部屋を片付けた。それでも財布は見つからない。将が立ち上がって言う。「おれ、自転車でちょっとその辺見てくるわ。」将が行ってしまった後、残った三人は再び部屋の中を探し始めた。「やっぱりあの時じゃないか?」正樹がぽつりと言った。ぼくもその可能性を否定するわけには行かなかった。

 昨晩、もうだいぶ空き缶の数が多くなってきた頃、酒が足りないと言って全員で近くのスーパーに買いに行った。二十四時間営業のスーパーだ。正樹の家からほんの百メートルのところで、四人で歩いていった。ここが良く思い出せないのだが、ぼくはなぜかリュックサックを背負っていた。スーパーでしこたまビールを買った後、ぼくはものすごく気分がよくなっていた。店を出てすぐ、ぼくは勢い良く走り出した。ビールいっぱいのリュックを背負ったまま。約三十メートル走ったところで何かにつまずいて転んだ。そして後ろについてきていた賢三がその上に飛び乗ってきた。将と正樹は歩いていて、散らばった缶を一つ一つ拾い集めていた。ぼくはリュックのファスナーを閉めるのを忘れていた。

 

将が帰ってきた。「どうだった?」ぼくは尋ねる。「なかったよ」将は部屋に入ってきてウーロン茶を手にした。バイトの時間にはもう間に合わないだろう。部屋の中の空気は煙草の煙で薄汚れている。それにアルコールの匂いも混ざっている。「昨日金を払ったときには持ってたんだ」ぼくはその濁った空気に向かって呟いた。「それは俺も覚えてるよ」と正樹。外では雀の鳴き声が聞こえる。どこからか車のエンジン音が聞こえる。

 「自分でもう一回外を見てくるよ」ぼくは靴をはき玄関の戸を開けた。正樹と賢三がついてきた。将はもう一度部屋を探してみると言って残った。二階建てのアパートの階段を下り、道路に出てしまうと何か自分たちが場違いであるかのように感じられた。もう世の中の大部分の人は今日の行動を開始していた。向かったスーパーの近くでは小学生くらいの子供たちが何かのカードについて熱心に話し合っていた。ぼくらが溝や道脇の雑草の影などをいちいち見て回るのを見て、彼らは話を中断した。正樹はすごい寝癖がついていたし、賢三は秋にもかかわらずジャージのハーフパンツにタンクトップという格好だった。ぼくだってひどい顔をしていた。スーパーに着いてしまうと後は引き返すしかなかった。帰りは同じところを見て回ったが、やはり財布は見つからない。「賢三、ホントごめんな。」ぼくはコンクリートを見つめたまま言った。「被害からすればお前のほうが大きいだろう」賢三は慰めるように言った。

 部屋に着くと、将は一人で漫画本を読んでいた。「一通り探したんだけど後はあきらめたよ。」ぼくは流しの水道をひねりながら言った。「こっちも全然見つからなかった」しばらく誰も何も語らなかった。ぼくはテーブルの近くに座って水を飲み、将は相変わらず漫画を読んでいた。賢三は窓のそばで煙草を吸っていた。正樹はテレビのスイッチを入れたが、しばらく画面を見つめてやがて諦めたようにラークの箱に手を伸ばした。そして最後まで吸い終わり、吸殻を灰皿に押し付けてからこう言った。

 「いつまでもこんなことはしていられないな。」

 「おれ、明日から規則正しく生活するよ」ぼくはそれに続いて言った。

 「それ毎週聞く台詞だぜ?」賢三が言った。

 「おまえらは加減を知らないんだよ。」将が漫画本を閉じた。「おれもうそろそろ行かないと」正午近くになっていた。将は用事があるからと言って立ち上がった。「千円ほど貸してくれないか?」ぼくは出て行こうとする将に後ろから声をかけた。「帰る電車賃もないんだ」将は快く貸してくれた。「返すのはいつでもいいよ」

 将が出て行ってしまった後でぼくは正樹の台詞を繰り返した。「いつまでもこんなことはしていられないな。」先週は正樹が近所の家の柵で前回りをして携帯を壊したし、その前は騒ぎすぎてアパートにパトカーがやってきた。さらに前にも、そのさらに前にも思い出すとうんざりするようなことはいくつかあった。

 正樹が言った。「将の言うとおりだな、自分で限度を設定しなくちゃいけないんじゃないか?」「とことん飲むから次の日辛くなるんだよ。ちょうどいいところでやめておけばさ、朝だって起きられるし記憶だってなくならないだろ?財布のことだって覚えていられる。」賢三がそれについて考えを言う。「でもそれで楽しめるか?そんな中途半端に飲んだって盛り上がらないだろう?」正樹が答える。「それが問題だな」

 

「昨日借りてきたビデオ写してくれないか?」ぼくは煙草に火をつけながら言った。一番近かった正樹がビデオを取る。「昨日の夜観てただろ?」ぼくは少し声の調子を明るくして言った。「もう一回観たいんだよ。あれみると気分がよくなるんだ。」正樹は何も言わずにビデオをデッキの中に入れ、再生ボタンを押す。昨日の続きから映像が流れる。「昨日全部観てなかったんだな」賢三がため息をつくように言った。ぼくも正直なところ驚いていた。漠然とではあるが、一度全て観たように思っていた。こんなことも覚えていないじゃないか。しかも誰一人として。

ビデオをつけたもののあまり真剣に観る気にはなれなかった。昨夜見たはずの内容がほとんど頭から抜け落ちていたせいだ。ぼくはそれをなんとなしに観ていた。他の二人も同じ具合だった。観ている側の気持ちとは裏腹に、映画はラストへと向けて盛り上がっていった。賢三がうんざりしたように首を振った後、ふと何かを思い出したように言った。

「そういえばお前、財布の中にカードとか入ってたんじゃないのか?早めに止めないともっとえらいことになるぞ。」

ぼくは財布の中に入っていたものを思い出そうと試みた。キャッシュカード、車の免許証、レンタルビデオ店のカード、その他もろもろ。途中で思い出すのをやめた。

「とりあえず警察に届けたほうがいいんじゃないか?望みは薄いけどひょっとしたら届いてる可能性だってなくはないだろ?」

正樹が言った。ぼくはそれに同意し、手を伸ばしてテーブルの上の携帯をとった。「正樹、警察って何番?」正樹はそんなことも知らないのかというそぶりを見せてからぼくに教えた。「110番」ぼくは電話のボタンを押した。すぐに相手が出た。

「はい、もしもし。事件ですか?事故ですか?」ぼくは少し考えてから言った。

「財布を落としたんですけど」一呼吸居心地の悪い間があいた。電話の相手は言った。

「あの、こちらは緊急用の回線なのでそういったことは近くの交番に連絡してもらえますか?」緊急用?ぼくは言った。

「そうですか。すみません、最寄りの交番の番号を教えてもらえますか?」

「あなた今どこからかけています?」ぼくは正樹に「住所」と口を動かした。正樹が隣で言うことを復唱した。

「ちょっと待ってください……それなら**―****ですね」

「ありがとうございました。」

電話を切った後でぼくは正樹の肩を拳で叩いた。「緊急用回線だから交番に電話してくれだってよ」正樹は悪びれずに、ふーん、とだけ言った。

口の中がどうにも不快だったのでぼくは風呂場に歯ブラシをとりに言った。風呂場には全部で四本の歯ブラシがあった。それぞれが持参したものだ。正樹は女が家に来るたびに言われるそうだ。「あんた、一体普段どんな生活しているの?」

ぼくは二人がいる部屋の鏡の前で歯を磨いた。この家にはそこにしか鏡がないのだ。洗面所にも風呂場にもない。磨いている最中に鏡に移っている自分の顔を眺めていると、左目の脇に何かしみのようなものがついているのに気づいた。左手でそのしみをなぞってみるが、顔を近づけてよく見てみるとそれがしみではなくてしわであることがわかる。それはずいぶんいびつな形をしていた。目の外側から五ミリくらい離れたところにあり、指の爪くらいの大きさで数字の3を縦に伸ばして逆にしたような形だった。歯ブラシを口に突っ込んだままいろいろな表情を作ってみると、ひとつの表情がそのしわにぴたりとマッチした。それは筋肉の微妙な力の入れ具合を必要とする表情で、鏡の中の顔はひどく苦しんでいるように見え、目の周りの筋肉は軽い痙攣を起こしていた。しわがついたのはおそらく寝ている間。ぼくはさぞ嫌な夢を見ていたのだろう。

もう一度左手でしわをなぞってみる。何度か触っているうちにその存在にも幾分なれてくる。まあ、家に帰ってシャワーでも浴びればなくなるだろう。ぼくは幾分楽観的に見当をつける。口から泡がこぼれてきたのを機に台所の流しへと向かった。

うがいを済ませて再び部屋に入ろうとすると、正樹が昨晩使った食器を重ねて部屋から出てきた。ぼくらは互いに身体を半身にしてそれぞれ通路を開ける。賢三は空き缶をビニール袋に詰めていた。ぼくもそれを手伝った。

「正樹、時刻表は?俺そろそろ帰るよ」片づけが終わった後ぼくは言った。正樹が掃き終わった床に腰を下ろしながら言う。「そこのかばんの中」ぼくはすぐに見つけ出し、電車の発射時刻を調べる。「一時三十五分。今から行けば丁度だな」賢三が後ろから声をかける。「俺ももう帰るよ。俺の時間は?」ぼくと賢三では住んでいる方向が逆だ。ぼくが登り方面。賢三が下り方面。「五十分」賢三は少し迷ってから言う。「じゃあ俺は一服してから出るよ」賢三はその言葉を言い終わるか終わらないかのうちにすでに煙草に手を伸ばしていた。そしてライターで火をつけ、ベランダから外の様子を眺める。正樹が思い出したようにぼくに尋ねる。「カードのことはどうするんだ?」ぼくは思い出して幾分うんざりしながら答える。「家に帰ってから考えるよ。」じゃあな、と言ってぼくは立ち上がって玄関へ向かう。後ろから二人の声がする。「気をつけて」「またな」ぼくは靴を履き、ドアを閉めながら言った。
「ああ、また来週」 

  やばい、遅刻だ。大野は目覚めたときそう思った。意識が覚醒した後も彼はしばらく目を閉じていた。まだ一日を始める準備ができていなかったからだ。それでも早く起きなくてはと思い、枕元にある時計に手を伸ばして時刻を見る。そして身体を起こして窓から外の様子を見る。彼はいつもカーテンを開けてから寝るのでベッドから出なくても外の景色を見ることができる。彼の目覚めたときの予想に反して、外はまだ闇に包まれていた。

 

 またか。彼は心の中でそう思う。ここのところ毎晩同じようなことが繰り返されていた。起きた瞬間に焦りが生じる。寝坊してしまった、と。そしてそのことを受け入れるために何分か目を閉じたまま過ごし、時計を見て、外を見る。そして安堵とともにいくらか苛立たしさが生じる。何でこんな時間に目を覚まさなくてはいけないのだ。

 
 実際のところ、彼が寝坊するということは極めて稀であった。寝坊しても遅くて三十分。そんなところだった。たとえ寝坊したとしても彼は朝を比較的ゆっくりと過ごすタイプだったので、仕事に遅刻するということはなかった。寝坊したときは朝の読書の時間を省けばいいだけの話だ。

 彼はある会社の外回りの仕事をしていた。主に三十代、四十代の主婦を対象とした、化粧品の販売を受け持っていた。彼は好んで人と会話をするほうではなかったが、かといって暗いというのでもなかった。そして口数が多くないにもかかわらず、彼の営業の成績はちょっとしたものだった。そのせいで、いつだったか喫煙所で一緒に煙草を吸っている時に同僚に聞かれたことがある。「俺とお前ではどこが違うんだろう。」同僚は独り言みたいに言った。彼のほうの成績はあまり芳しくなかった。大野は自分でもわからなかったので黙っていた。

 大野は顧客の家に訪問して商品を売るときでも、決して口がうまいわけではなかった。でも、その分顧客のほうが良く喋った。大野が話を聞いているとき、主婦たちの話は湧き出る泉のように絶えることなく延々と続いた。彼はあまり仕事熱心というわけでもなかったから、買う見込みがなさそうな客の話も最後まで聞いてやった。だが、そうすることで逆に彼の成績は伸びていった。トップとまではいかなかったが、彼としてはそれで全然かまわなかった。むしろ自分が営業という仕事を続けていられること自体不思議だった。

 

 大野はもう一度時計を見た後、またベッドにもぐりこんだ。しかし眠りは訪れそうになかった。彼は諦めて読書用の豆電球のスイッチをオンにし、足を床のほうに出してベッドに座った。それから自分がひどくのどが渇いていることに気づいた。冷蔵庫を開けたが、そこにはサラダのドレッシングとマヨネーズとケチャップしか入っていなかった。次に彼は流しに行ってコップを取り出し、蛇口をひねった。しかし、雫が一滴、二滴と落ちるだけで後は何の変化もなかった。そこで彼はようやく日曜日に見たはがきのことを思い出した。「今週の木曜日から金曜日にかけて水道工事があります。その関係上、木曜の午後三時から金曜の午後三時までお水が出ませんので何卒御了承ください。」

 彼は外に行って飲み物を買ってこようかどうか迷った。大野が住むアパートから一番近いコンビニまでは徒歩で五分といったところだった。近いといえば近いのだが、今の彼にはずいぶんと遠く感じられた。

 それでも喉の渇きは相当なものだったので、大野は結局コンビニまで行くことにした。パジャマ代わりのスウェットに靴下とランチコートとニットの帽子をかぶり、彼は外に出た。スウェットの下にTシャツを一枚着込んでいたにもかかわらず、外の空気は彼の体温をすぐに奪ってしまった。彼は小走りでコンビニまで行き、店内に入った。温かい缶コーヒーを買い、レジで支払いを終えると、彼は店内でそれを全て飲み干してしまった。一度外に出て空き缶をゴミ箱に捨ててから、再び店内に戻った。雑誌を少し立ち読みしようと思った。でも読みたい本は見当たらなかった。そして彼は自分ののどの渇きがまだ満たされていないことに気づいた。コーヒーは彼の身体を温めてくれはしたが、のどの渇きを潤すような類の飲み物ではなかった。彼はもう一度飲み物が置いてある場所へ行き、今度は二リットルのペットボトルに入っているウーロン茶を選んだ。そしてレジのところまで行き、代金を支払おうとした。だがその途中で、レジの隣にあったおでんのにおいがひどく気になった。彼はおでんを追加し、支払いを済ませ、店内を後にした。

 おでんの汁がこぼれないように、帰りはゆっくりと歩いていった。そういえば車の数が少ないな。横断歩道を渡ったところで彼は気づく。いつもなら真夜中でも交通量が多い通りだ。しかし彼が帰路の途中で見たのはほんの二、三台だった。まあ、こんな日もたまにはあるんだろう。彼はそれ以上気にしなかった。

 

アパートの駐車場に着くと、階段の脇に一人の男が座っているのが見えた。暗くて顔は良く見えなかったが、徐々に近づくにつれて大野はその男は自分の知り合いなのではないかと思った。それも結構親しい間柄の人物なのではと。しかし男はずっとうつむいていたので、近くまでいっても顔は確認できなかった。

大野が男の脇を通り過ぎて階段を登ろうとしたとき男は言った。「残念なことになってしまった。」大野は立ち止まって男のほうへ振り向いた。男はうつむいた姿勢を保ったまま続けた。「大変残念なことになってしまいました。私としてもこのような事態には極力ならないように振舞ってきたつもりだったのですが。」男は立ち上がり、そして振り返った。大野は彼の顔を見た。薄暗くてまだはっきりとは見えなかったが、彼は三十代後半から四十代くらいに見えた。五十には達していないようだった。男はスーツにワイシャツ、ノーネクタイという格好で、ワイシャツのボタンは二つ開けられていた。片手には黒いアタッシュケースを持っていた。スーツの上には何も着ていなかった。きっと寒いだろうな、と大野は思った。やはり彼は自分の知り合いであるような気がした。「どこかでお会いしましたか?」大野は尋ねた。男は人差し指で首をぽりぽりとかいた。困ったなあとでもいうように。「どこかでお会いしたか?あなたはそういうことを聞くんですね。ですがそれは今あまり重要なことではありません。今重要なのは私があなたに用があるということです、大野忠雄さん。」

 「用って?」大野は付け足した。「それになんで名前を知っているんですか?やっぱり何所かで会ったんでしょう?」男は言った。「立ち話もなんですから、部屋のほうに入れて頂けないですかね。ここはずいぶんと寒いようで。」大野は男の顔を見た。そこには悪意のようなものは感じられなかった。ただ、男が自分の部屋に入るということはすでに決定されていることのように思えた。大野は振り返り、階段を登っていった。

 

 二階にある部屋に着き、彼はドアを開け、靴を脱いだ。「靴が多いので適当に空いているところに脱いでください。」大野は後から入ってくる男に声をかけた。大野は自分の部屋のほうに眼をやった。豆電球だけが着けっぱなしになっていた。男のほうを向くと、男は律儀に彼の散乱としていた靴をそろえていた。そして自分が脱いだ靴をきちんと外のほうへ向けた。「出船の精神です。」男は言った。「これがなかなか大切なことなんです。」

 大野の部屋は簡素だった。ある物といえば、ベッド、テーブル、椅子が二つ、あとは本棚だけだった。本棚はやけに大きかったが、実際にそこにある本は半分に満たなかった。残りのスペースはパソコン、ウォークマン、他にこまごましたものが置かれていた。

 大野はテーブルの上にコンビニのビニール袋を置き、ベッドに腰を下ろした。男はテーブルの脇にある椅子に座った。「すいませんが、水を一杯頂けませんか?ちょっとのどが渇いたもので」男は少し上を向き、指でのどをさすった。大野は、自分が呼んだわけではないので出す義理はないと思ったが、さすがにそこまで冷たくする理由もなかった。大野はコップを持ってきて男の前に置いた。「今水道の水が止まっているんで」そう言って袋からウーロン茶を取り出し、コップに注いでやった。「これはこれは、ご丁寧に」男は注ぎ終わるか終わらないかぐらいでコップを持ち上げ口に持っていった。待ちきれなかったのだろう。しかし半分ほど飲んでしまうと彼はコップを置いた。そしてゆっくりと部屋の中を見渡した。大野は黙ってその様子を見ていたが、男のほうからは話を始める気が見受けられなかった。そこで自分から切り出した。「俺に用があるんでしょう?」男の視線は本棚で止まっていた。「そうでした、そうでした。」男は彼に視線を戻した。「私はあなたに用があります。とても大事な用です。でもこれがなかなか切り出しにくい話でして」大野は言った。「でもあなたが話さないと始まらないでしょう。」男は大野の目をじっと見ていた。そして何かを決心したかのように深く頷いた。「それは御もっともです。私が話さないと何も始まりません。わかりました、では言いましょう。私はあなたに告げねばならないことがあります。」男は大野の様子を伺うように間を置き、続けた。

 

「あなたの人生は今日で幕を閉じます。」

 

 部屋の中には重い沈黙が漂った。大野は少しの間その言葉を頭の中で転がした。アナタノジンセイハキョウデマクヲトジマス。文としては理解できたが、その文が何を意味しているのかはわからなかった。一体何のことだ。彼はそれを口にした。「何?」

男は気の毒そうな目で大野を眺めた。「御もっともな返答です。確かにまったく現実味がない話です。いきなり現れた男が家に入って、お茶を飲んで、それであなたは今日で終わりですって言われてもねえ…。そりゃあ信じられません。」男は少し微笑んだ。そして釣りあがった頬を元の場所に戻してから言った。「でも、これは事実です。」

大野はまだ何も言えなかった。何かを言おうとしても、頭の中の整理ができなかった。まず彼が最初に考えたのは、自分は起きているのか、ということだった。実は自分は夜中に目を覚ましたという夢を見ていて、もう少しすれば目が覚めるのではないかと。しかしそういった考えを目の前にいる男に告げることはひどく馬鹿げているような気がした。そして彼は放棄した。意識を自分の内に納め、ただ時間を経過させようとした。

 

しかしそんな彼の試みも、男の一言によってあっさりと散ってしまった。「大野さん、気を確かに持ってください。あなたは確かに今日で死にますが、少なくてもまだ死んでいないのです。」初めて死という言葉が出てきたことによって、大野の表情は少し硬くなった。男は続けた。「私だって本当はこんなことは告げたくなかったんです。できることなら避けたかった。あなたは知らないでしょうが、私たちはむしろこのような事態にならないように努力してきたのです。時にはあなたたちを向上させようとも努めてきました。しかしもうどうしようもないのです。」大野は反応を示した。「あの、私たちとかあなたたちって?他にもこんな風になっている人達がいるってことですか?こんな風っていうのはつまり、今の俺とあなたのような状況に、ということですけど。それに向上させようとしてきたってなんのことですか?」男は大野の疑問点を整理するように首を回した。そして椅子から立ち上がり、テーブルのそばを行ったり来たりし始めた。「やっぱりあっさりやってしまえばよかったんだ。しくじったな…。でももう遅いな。」男は歩きながら呟いた。そしてまたしばらく往復を繰り返した。それから顔を上げ、今度は大野に向かって言った。「私にはこの仕事が向いてないんです。だから仕事の依頼が来ると本当にうんざりします。私は、ほら、人の命を奪うとかその手の人間には見えませんでしょう?」大野は男の質問には答えずに言った。「これは仕事なんですか?」男もまた頷いてから言った。「私はいつまで経っても慣れないもので、本当は相手と会ったときに、こう、気を奮い立たせないといけないのですが、なかなか自分でエンジンをうまくかけられないことがあるんです。今日で言えば、私はあなたと階段で会った時点で事を済ませてしまうべきでした。そうしないと、結構面倒なことになってしまうのです。例えば、質問攻めに遭うとか。」男はテーブルのところで止まり、残っていたウーロン茶を飲み干した。「私の対応の仕方が悪いもんだから、なあなあの関係になってしまうのです。でも、まあ、この状況になったことに関しては私にも責任があるので私はある程度あなたの質問に答えようと思います。」男は椅子に座った。「まず、私やあなたのような人が他にもいるかということでしたね。」

大野は実際のところ、自分が死ぬという実感は全く湧いてこなかった。しかし男の話が嘘だとは思わなかった。結局のところ、彼はまだぜんぜん事態を把握できていなかった。生じた流れに身を任せてきただけだった。そしてもう少し流れに任せてみることにした。大野は頷いた。男は話し始めた。

「実際のところ、私のような人間が何人いるのかということは正確にはわかりません。でも、私一人ではないと思います。私は会社で言うところの社員みたいなものでして、上からの命令をこなしていくだけなのです。派遣会社を想像していただけるとわかりやすいと思います。違うところは仕事がいつも一人なのと、雇い主と顔を全く合わせないことです。」大野はわかったことを示すために頷いた。でも本当は何もわかっていなかった。それどころかあまり興味すら抱けなかった。話を進めるために大野は言った。「それでぼくの側の人間も他にいるんですか?」男は答えた。「さっきも言いましたように、仕事仲間の人数がわからないので全体のことは答えられませんが、私が受け持っている範囲で言うなら、あなたと同じような運命にあった人は今回二十人ほどいます。」

二十人。大野は男の言葉を繰り返した。それは大野が想像していたのよりもはるかに多い人数だった。男は続けた。「正確に言えば、あなたがその二十人目に当たります。」

「ということは、あなたはすでに十九人も殺したということになりますね。」大野は言った。自分から「殺した」という言葉が出てきたことに驚いた。「今回に限って言えばそういうことになります。本当に割の合わない仕事なんです。二十人なら二十人依頼を受けて、それを期限内に全て始末してやっと首を繋げているといった具合です。そして今回はあなたで最後です。日が昇るまでにあなたの命を頂かなくてはなりません。」男はグラスに手をやった。しかしもうグラスにお茶は残っていなかった。大野は尋ねた。「その、命を頂くときの方法っていうのはどんな感じなんですかね?」男は何も言わずにグラスを置き、椅子の脇に立て掛けておいたアタッシュケースをテーブルの上に置いた。そしてその中から大きなナイフを取り出した。「これで首を切り取るんです。」ナイフは、良く映画で海賊が持っているような、刃が湾曲していて柄が派手派手しいものだった。男の身なりとは全くバランスが取れていなかった。大野はじっとそのナイフを見つめていた。男は言った。「この仕事が終わったらいい加減こいつを手入れしないとね。なんせ二十人も切ったんだから。あ、正確には十九人ですけど。まあ直に二十人になります。」ナイフはかなり痛んでいるように見えた。さすがに血は付いていないものの、所々に錆のような汚れが付いていた。大野はそんなナイフで本当に人が切れるのか不思議に思った。男はケースから取り出した布のようなものでナイフを拭きながら言った。「ずいぶんと話が長くなってしまいました。そろそろ取り掛からないと。すみませんが、床にひざまずいてそこの椅子にあごを載せてもらえますかね。」

大野は黙って男の顔を見た。男はナイフを持ってもそれ以前となんら変わらない様子だった。大野は自分が今から何かしら抵抗することを考えてみた。逃げようとするなり、言われたことを拒否するなり。しかし彼はそのどちらも行動に移さなかった。そうすることによって何かこの、均衡を保っているとも言える状況が、一変して恐怖の場と化す気がした。男が激怒するなり、突然冷酷になるなり。またはそれが自分の命を縮めてしまうのではないかという危惧もあった。結局大野は言われたとおりにひざまずき、椅子の上に自分のあごを載せた。男が近づいてきて、大野のすぐ隣に立った。

「やっぱり首を切るときっていうのは相当に痛いんですかね?」大野は最終的な状況を少しでも遅らせるためにそう言った。男はナイフの柄の先で目尻をかきながら言った。「そうですねぇ、私は切るほうなんでよくわかりませんが、やっぱり痛いでしょうね。なんせ首を切るんですから。」男は大野の首の上にナイフを置いた。「でもなるべくあっさりと終わらせるようにしますよ。」

首にはナイフの冷たさが感じられた。だがそれによって大野の頭の中にひとつの思いが浮かんだ。

 

おれは絶対にあっさりとは死ねないだろう。この男が故意だろうとなかろうと、おれは絶対にゆっくりと時間を賭けて死ぬことになる。

 

そう思うと大野は急に恐怖を覚えた。顔から血の気が引き、膝から背筋にかけてぶるぶると小刻みに震えだした。しかしもうどうすることもできなかった。逃げようとすればそれこそ瞬時に首に切れ目が入るだろう。何か話をして引き伸ばそうとしてももう話題は浮かんでこなかった。

大野は身体の震えを男に悟られてはいけないと思った。かれは両手で椅子の足をしっかりと握り、歯を食いしばり、あごを椅子に強く押し付けて身体を固定した。ナイフがゆっくりと首の上で動き出した。それはまるで首を撫でるような動きだった。「少しでも血が出たら一気にいきますからね。」男は言った。大野は首が切られるときに自分がどんな反応を示すのかが気になった。泣き叫ぶのだろうか、嘔吐するように血を吐くのだろうか、それともじっと黙って耐えているだろうか。

「おかしいなあ、傷一つつかないぞ」男は相変わらずゆっくりと、撫でるように首の上でナイフを動かしていた。もう少し力を入れようとか、そんな気は全くないようだった。

大野が首の上に感じるナイフの感触は鋭利とは程遠いものだった。頼むからそのナイフを研いでくれ、と彼は叫んだ。しかし声は出なかった。

血が出てから十秒、十秒我慢しよう。大野はそう心に決めた。その頃には意識もなくなっているだろう。そして静かに息を吸い込み、少し吐き出してから息を止めてそのときに備えた。

「なんでだろうな、こんなことはなかったんだけどな」男は手を休めることなくそう言った。動かすリズムは常に一定だった。ナイフは首の上でいつまでも動き続けていた。

大野はじっとそのときを待った。もう一度息を吐くべきだろうか、我慢すべきだろうか。彼は自問自答を繰り返していた。

 下はジーンズをはいて、上は裸、両手には長袖のTシャツとバスタオルという格好でぼくは居間のドアを開けた。
 「眠い」閉め終えたドアに向かってそう呟くと、後ろから母の声が聞こえる。「一晩中漫画本なんか読んでるからでしょうが」母は椅子に座り、テーブルの上で新聞を読んでいた。

 
 ぼくが椅子に座り、バスタオルで髪を拭いたり湯冷ましのためにばたばたと風を送ったりしていると、母が何か食べるかと尋ねてきた。何があるのか聞くと、母は少し考えてから言った。「もうそろそろお昼だし、パスタなんかはどう?」ぼくがそれにすると言うと、母は台所のほうへ行った。ぼくはその背中に向かって、他の家族はどこへ言ったのか尋ねた。母は台所から少し大きな声を出して言った。「お父さんはゴルフ、あんたの妹さんは水泳、弟さんはバンドの練習。」

 

ぼくは昨日友達から三十冊の漫画本を借りてきて、夜の九時から朝の七時まで読み続けた。夕食を終えてから少しの間テレビを見、それから自分の部屋に入り読み始め、みんなが起き出す頃にやっと読み終え、開きっぱなしのカーテンを閉め、ベッドへもぐりこんだ。四時間ほど寝たあとで部屋から出てみると家には人の気配がなかった。家の中を回り誰もいないことを確認した後で、ぼくはシャワーを浴びることにした。浴室に入り鏡を見ると、髪型が前の日と同じオールバックに保たれていた。この髪型は学校では不評だった。ぼくの中では映画に出てきた典型的な白人の中年男性のものを真似たつもりだったが、誰もそんな風には考えなかった。勘違いしているヤンキーだとか貧相なやくざだとかそんなことばかり言われた。自分で見ても確かに映画のそれとは違っていると思った。これはなしだな、と自分に言い聞かせ、少し熱めにしたお湯を頭にかけた。浴室から出て居間へ行くと、母が帰って来ていた。


 二人でパスタを食べていると母が言った。「そういえば、もうすぐ岸ちゃんが来ることになってるから」ぼくはテレビのチャンネルを一通り回して、見たいものが見つからなかったのでリモコンを母に渡した。母は、なんでもいい、と言ってリモコンを押し返した。

「オールバックはやっぱり不評だったよ」パスタを食べ終える頃にぼくは言った。母はすでに食べ終わっていた。「だから言ったじゃない、やめときなさいって。そんなことしてるからオタクとか言われるのよ」ぼくは少し驚いて言った。「何それ、誰が言ってた?」母が言った。「里美が言ってたわよ、『友達から、あんたのお兄ちゃんオタクっぽいねって言われたんだけど』って」ぼくはそういう目で自分が見られるというのはどういうことか考えてみた。そして自分の家族がそう見られるということについても。「まあいいじゃん、家族それぞれ多彩ってことで。日曜ゴルファー、スイマー、バンドマンにオタク。それに…」テーブルに置いてあった通信教育の本を指して言った。

「行政書士」

母は本をぱらぱらとめくった。「無事に受かればね」

もちろんぼくは受かるとは思っていなかったが、それはまた別の問題だった。

食事を終え、皿を下げてから弟の部屋に行って彼が朝買っているはずの漫画の週刊誌を探した。そしてそのうちの数冊を持って居間の椅子に座り、表紙をめくった時に玄関のチャイムが鳴った。「ケーン、ちょっと出てー」台所で皿を洗っている母が言った。ぼくが玄関の戸を開けると予想通り岸谷さんが立っていた。「こんにちは」「こんにちは!謙太くん」ぼくも挨拶を返した。岸谷さんは二人の子供を連れていた。彩ちゃんと雪ちゃん。五歳と一歳。雪ちゃんはお母さんの腕の中にいた。岸谷さんたちを部屋に通すと母はまだ洗い物をしていた。「謙太君部活終わったら暇そうねー」岸谷さんが言った。「そんなことないですよ、受験勉強もあるし」ぼくがそう言うと台所から声が飛んできた。「嘘よ、全然勉強してないんだから。ほら、そこら辺に漫画転がってるでしょ」ぼくは話題を変えようとした。「彩ちゃん、元気だった?」彩ちゃんはおどけた調子で言った。「元気してたよぉー」

母が食器を洗い終えて居間へやってくると、岸谷さんが持ってきたケーキの箱を出した。そこでぼくが紅茶を入れ、みんなで食べることになった。はじめのうちは話に交じっていたが、母と岸本さんの二人が洋服のカタログの本を出し、その方向に話を移したことを境にぼくは読みかけの漫画に戻った。彩ちゃんは一緒になってカタログを眺めていた。雪ちゃんは物につかまりながら不安定に歩いたり床を這ったりして部屋中を動き回っていた。

しばらくすると、二人の母親が買い物に行くと言い出した。「あんた彩ちゃんたちと留守番しててくれない?」母が言った。いいよ、とぼくは言った。ぼくは特に子供好きというわけではないがこの二人の子供とは結構頻繁に会っていたし、一緒に遊んだりしたこともある。両親の友達が連れてくる子供の中には見ているだけで蹴り飛ばしたくなるような子供もいたが、幸運なことにこの二人はそうではなかった。

雪ちゃんが眠そうな顔をしていたので、岸谷さんは出て行く前に彼女に昼寝をさせようと試みた。程なくして彼女が眠りに落ちると、母と岸谷さんは買い物へと出かけた。ぼくと彩ちゃんが玄関先まで見送ると、出かけ際に岸谷さんが、本当に大丈夫?と尋ねてきた。ぼくが、たぶん大丈夫ですよ、と答えると、大丈夫!と彩ちゃんは言った。「じゃあ謙君お願いね」という言葉を残して二人は買い物へと出かけていった。

ぼくは漫画の続きを読み、彩ちゃんは持ってきたノートにお絵かきをしていた。ぼくは一冊を読み終え、二冊目に取り掛かった。彩ちゃんはお絵かきに飽きたらしく、持参してきた絵本を持ってぼくのところへやってきた。「謙くん、これ読んで」彩ちゃんは絵本をぼくの前に突き出した。絵本の表紙を見てみると、いつだったか前にも読んだことがある本だった。でもぼくはそのことは言わずにその本を読むことを了解した。二人でテーブルの椅子に座り、ぼくはページをめくった。

「昔々あるところに二匹のねずみの兄弟が住んでいました。二匹とも働き者で冬に備えて食べ物を集めていました。ある日森でいつものように食べ物を探していると、弟のほうのねずみが見たこともないような不思議などんぐりを見つけました。」

彩ちゃんが途中で口を挟んだ。「そんなこと書いてないよ」ぼくはこの子が字を読めるのだということを思い出した。二回同じ話を読むのでは読むほうも聞くほうも退屈だと思ってわざと書いていない話をでっち上げていた。ぼくは負けじと言った。「彩ちゃん、絵だけ見て。絵だけ。この絵本には違う物語もあるんだよ」その言葉を信じたかどうかはわからないが、それ以降彩ちゃんはわりと静かに聞いていた。ぼくは途中で話が破綻しないように必死に頭を働かせ、なんとか最後まで終えることができた。弟ねずみが拾ったどんぐりは実は森の王様である熊の所有物であって、熊はそれを無くして探していたのだが、それを知った兄ねずみが弟ねずみに知らせ、二人でそのどんぐりを返しに行ったところ、熊は大喜びし、かわりにねずみの兄弟はたっぷり食料をもらい無事に一冬を越せました、と言う話だ。絵本の中に熊の絵がないことが致命的で、多少陳腐な話であることも否めなかったが、それを別にすれば即席にしてはまずまずだったと思う。彩ちゃんも少なくとも退屈せずに聞いていたようだった。何度かちゃちゃは入ったけれど。

 二冊目の絵本を出されるのは避けたかったので彩ちゃんにディズニーの映画を勧めた。うちにはそういった類のビデオが結構ある。一緒に二階へ上がってその中のひとつを選び、居間に戻ってビデオをセットした。運が悪いことに、その映画はミッキーマウスやドナルドダックが出てくるものではなく、チップとデールという二匹のリスの物語だった。さっきのねずみの話と被っているかもしれない、という疑念がぼくの中に浮かんだ。でもそれは余計な心配というやつで五歳の子にはそれはどうでもいいことだった。始まってしばらくは一緒になって映画を見ていた。ぼくも子供の頃同じ物を見ていたので大まかなストーリーは覚えていたが、それなりに楽しめるものではあった。話が二話目に移るときに、彩ちゃんが熱中しているのを確認した後再びぼくは漫画へと戻った。そしてそれぞれが思い思いの時間を過ごした。ぼくは漫画を楽しみ、彩ちゃんは映画を楽しんだ。ケーキや紅茶の匂いがかすかに部屋の中に残っていた。ほのぼのとした日曜日の午後といった感じだった。

 

急に彩ちゃんが怪訝な顔をしてぼくのほうを向いた。鼻をつまんでいる。「なんか臭い」ぼくは風邪気味で鼻をつまらせていてわからなかったが、よく注意してみると確かに何かの臭いがした。彩ちゃんが臭いを頼りに部屋の中を動いていく。その先には部屋の端っこで寝ている雪ちゃんがいる。足元のほうから上のほうへ移っていき、オムツのところで鼻が止まる。「臭い、雪うんちしてる!」ぼくも傍によった。近くに行くとぼくの鼻でもその臭いがわかった。ほら、と言って彩ちゃんは臭いをかいでみるように促したがぼくはそれを遠慮した。厄介なことになったな、と思った。岸谷さんもいないしうちの母親もいない。でもこのまま放置しておくわけにもいかない。

謙くんやって、と彩ちゃんが言った。オムツを替えて、ということだ。ぼくは頷いた。まあ、必然的にそうなるだろう。まさか五歳の子にやらせて自分が眺めているわけにはいかない。眠っている雪ちゃんの頭の上には岸谷さんのかばんがあった。おそらくそこに替えのオムツやらなんやらが入っていると思われる。自分で岸谷さんのかばんを探るのは気が引けたので彩ちゃんに探してくれるよう頼んだ。ぼくはそのあいだオムツはずしにとりかかる。左右のマジックテープをはずすとほぼ同時に雪ちゃんが起きてしまう。初めは寝ぼけたような声が次第に大きくなり、すぐに泣き声へと変わる。ぼくは急いでオムツを開き、両足を持って腰を浮かせて少し引っ張り出す。彩ちゃんが替えのオムツと赤ちゃんのお尻を拭く専用のティッシュのようなものを隣に持ってきてくれる。ぼくの隣に来たとき、「うわっ、臭い!」と言って鼻をつまみながら転げまわるというオーバーアクションをとった。ぼくは引っ張り出したオムツの半分を丸めて臭いを少しでも抑えようとする。それから彩ちゃんにティッシュを一枚とってもらいお尻を拭こうとする。一度拭いてみるが明らかに一枚では足りそうにない。岸谷さんはいつも何枚くらい使って処理をしているのだろう。見たところ残っているティッシュはそう多くない。一度のオムツ替えでたくさん使ってしまっていいのだろうか。他人のものを使っているとどうでもいいような些細なことが気になってくる。とりあえず一度拭いたものを二つ折りにしてもう一度使う。

「彩ちゃん、お母さんはいっつもティッシュどれくらい使ってる?」とぼくは聞いてみる。「わかんない」彩ちゃんは鼻をつまみながら返事をする。それはそうだろうな、と聞いた後で当然のことに気づく。自分の妹のオムツを替えるところをいつも詳しくなんか見ているわけがない。ぼくはもう一度ティッシュをたたんで使おうと試みる。でもこれ以上は無理のようだった。そのティッシュを丸めていない部分のオムツの上に置く。それからもう一枚ティッシュをとってもらう。何枚まで使っていいのだろう。再び疑問が浮かんでくる。どうでもいいようにも思えるがやはり気になる。隣で彩ちゃんが見ているし、雪ちゃんはほぼ泣き叫んでいる。作業を中断することはできない。

 

「ただいまー!」玄関のほうから母親たちの声が聞こえてきた。彩ちゃんは部屋のドアのほうへ走って行き、雪うんちしたんだよー、と岸谷さんに告げていた。ぼくは心底安心した。岸谷さんは急いでぼくと雪ちゃんのところへ来た。「謙君ありがとー」バトンタッチ。選手交代。ぼくは岸谷さんに場所を譲って邪魔にならないように傍に立って後の処理を見ていた。岸谷さんは何枚もティッシュを使い手際よく処理をしていた。お尻をきれいに拭き、新しいオムツを履かせるまではあっという間だった。

 ぼくは椅子に座り漫画本を取った。母が近づいてきて言った。「あんた、雪ちゃんのオムツ替えようとしたの?」ぼくは答えた。「彩ちゃんが気づいたからさ。だってまさか彩ちゃんに替えさせるわけにもいかないでしょ?」母は岸谷さんと雪ちゃんのほうを見ていた。ぼくは一呼吸置いてから言った。「簡単そうに見えるけど、実際やってみるとまだまだだったよ」母は呆れたような、嬉しそうなよくわからない顔をしていた。「当たり前でしょうが、あんたまだ何にもやってないんだから。まあ、でもよくやったほうじゃない?」

 二人の買い物袋には洋服やら雑貨やらの他にいろいろな食材があった。どうやら晩御飯も一緒に食べる手筈になったらしい。もしかしたら父親同士も一緒にゴルフをしているということなのかもしれない。

 ぼくは座りながら、もし誰も帰ってこなかったら最後までやり遂げられただろうかと考えてみた。それから考えるのを諦め、再び漫画のページをめくった。

 



忍者ブログ [PR]
カレンダー
02 2026/03 04
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
フリーエリア
最新コメント
最新記事
(02/09)
(02/09)
(02/07)
(02/06)
(02/05)
最新トラックバック
プロフィール
HN:
酒本 理
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1984/04/10
職業:
医学生
趣味:
読書、映画鑑賞、プール、ランニング
バーコード
ブログ内検索
最古記事
(06/12)
(06/14)
(06/17)
(09/02)
(09/03)
アクセス解析